男はプライドの生きものだから

 

【 書 名 】I don't want to talk about it

【 著 者 】テレンス・リアル (Terrence Real)

【 訳 者 】吉田まりえ

【出 版 社】講談社

【発 行 年】200047

【 価 格 】本体1800

ISBN 4-06-210126-2

 

書評

読売新聞5月14日2000年

朝日新聞5月7日2000年

FSAY(性と社会を語るフォーラム)書評

IFF書籍紹介

 

 

目次

 

序にかえて

斎藤学

精神科医・ 家族機能研究所主催者

 

プロローグ

 

第一章 男の隠れたうつ病

脆さを見せるのはタブー

男性は女性と異なったかたちで「うつ」を表現する

妻は夫の愛情が感じられないと言った

父親は息子の口答えに逆上した

破られた成績表

子供のころの心の痛みは時限爆弾のように

自分の心の中を覗く術を知らない男たち

うつ病は「性格的な弱さ」のあらわれか

「男の恥」の伝統が男を自殺にまで追いつめる

たくましいボディの持ち主になるという依存症

セラピストにさえうつ病に対する偏見がある

 

第二章 ナルシスの息子たち

美青年に欠けていたのは真の自己愛だった

仕事中毒者の思わぬ誤算

少年はママの小さな護衛兵だった

自分が自分を痛めつける病

失感情症 - 感情そのものがなくなる

ミスター・セクシーは六回も自殺未遂していた

 

第三章 抜け殻の男たち

魔物を少しだけ遠ざけておくために

検事総長をストーキングへと走らせたもの

自己を誇大化する行為-マージングとエレベーション

見捨てられた過去を呼び戻すベル

セックスを薬にしようとする男

抹殺されていた性的虐待の記憶

兄は自分の受けた傷を弟と共有しようとした

プライドは下半身が石に埋もれた像のごとく

「特効薬」が新たなうつ病をつくりだす皮肉

セラピーを求める女性、監獄行きになる男性

 

第四章 トラウマの生理学

すべてをコントロールしたがる男

立派な男の妻が荒れ狂っているケース

乳児期の愛情の欠如がうつ病の土台に

覆されつつある旧説

遺伝か環境か

フロイトがおかした歴史的な誤診

親の怠慢から生じるトラウマもある

悲しいときは泣いてもいい

 

第五章 不朽の「男文化」

男らしくない体つき

ジェリー狩り - 男の子のいじめは凄まじい

オスの攻撃性は生来のものなのか

泣いている赤ちゃんは「怯えている」のか「怒っている」のか

六センチ幅の革ベルトによる父親の儀式

男の掟につぶされる存在の証

無視する父親、手をこまねく母親という図式

第六章 失われた絆

母親は男の子を女性化するのか

男の子に必要なのは「男らしさ」ではなく愛情なのだ

問題は母親の権威をおとしめること

「男は黙って」の美意識が失感情症を生む

何ものにも動じない大木だったはずの男の末路

兄の死が家族を狂わせた

息子に重くのしかかる父の痛み

不屈神話が救いの手を遠ざける

 

第七章 能力主義の悲劇

男の子の損得、女の子の損得

ヒーローは男だけのもの

釘になるかハンマーになるか

スポーツ - 魂を失った現代のヒロイズム

コーチという名の支配

加担しなければ自分がやられる

自分をも「モノ」と見なす心理

雄鹿同士のツノ合わせ

「かけがえのない自分」という意識の邪魔をする能力不義

能力を磨きつつ、人とのつながりを培うことは可能である

 

第八章 心にひそむふたりの子供

自分をいけにえに捧げる

「僕のもっとも病的な部分を知りたいかい?」

親に虐待された子供が親の肩を持つというパラドックス

息子に憐れまれる父親

部下には横暴に振る舞い、上司には怯える男は

母親の気を惹くために息子は自分の指を潰した

傷ついた自分自身と対面する

毛むくじゃらの完璧主義者を解雇する

抗うつ剤は補助と考えるべき

 

第九章 子供への贈り物

記憶の洪水 - 恐怖は埋葬されていた

新しい男性像を創りだしていく原動力

人に暴力をふるっているときだけ感じる父親への親近感

胸ポケットに子供の写真をしのばせて

継承されていた傷の鎖を断ち切る

少年は継承される闇から逃げ切れなかった

 

第十章 癒しへの道 - 荒れ地を抜けて

家にこもってプラグを抜く、そして過食

壊れる母親

「向こう側の世界」に希望はあるのか

勇者の道を歩む三つの段階

絶望を体験する幸運

自分との成熟した関係を練習する

「僕はあの少年のために怒っている」

信じるプロセスは膚を焼く雨

心の底にたどりついた日のこと

感情を解き放ち、状態を癒す

回復とはふたつの記憶システムを統合すること

セロトニンのバランスをはかる - 抗うつ剤の効果

正されるフロイトのまちがい

 

第十一章 人間関係を学習する

死に損なったやり手事業家

自分の感情よりも親の感情

夫婦でうつ合戦

男はもはや城の主などではないのだ

プリンセス信仰が妻なしには何もできない男を生む

男と女はじつはそんなに違わない

開いていく心の扉

結婚で男は救われ、女は病んでいく

「お父さんなしでは生きられない」

妻たちは不満をぶつけなくてはならない

対人関係のスキルは簡単に学べる

 

第十二章 結論

「与える」という父性に目覚める男は幸福である

 

エピローグ

瀕死の病人になっても

人生の大事は愛すること

 

訳者あとがき

 

 

 

 

 

序にかえて

 

 このところ男の自殺が世人の関心を引くようになった。三人の中小企業の社長たちが、吉野屋の牛丼で最後の晩餐を終えた後、同じホテルで首吊り自殺をした。そのうちの少なくとも一人の社長は、死ぬ必要はなかったという。それからしばらくして江藤淳という、世間では硬派の論客とされている男が自殺した。妻に先立たれたのが原因ということで話題になった。

 最近のリストラ自殺の蔓延を含めて、男は自殺の誘惑に駆られやすい。これは最近の日本の特殊現象ではなく、どの民族のどの年齢階層をみても、男の自殺は女のそれの倍から十倍(フィンランドの15~24歳の自殺)に達する(例外は大陸中国だが、ここの人口動態統計はあてにならない)。 要するに「人は死ぬまで生きるべし」という人倫の第一原則を潔く守るのは女性であって男性ではない。女たちは「苦しい、死ぬ、死んでやる」と大いに自殺を語り、そのそぶりを示す(他者に伝える努力をする)が、自死することは少ない。男は黙ってしっかり死ぬ。あたかもそれが男の潔さであるかのように。

 

 男の平均余命(寿命)が女よりも十年短いというあからさまな事実は、男の骨格の太さ、筋肉の厚さ、それによってもたらされる活性酸素の有害な影響のせいだという生理学的原因に帰されている。確かに数年分はそのせいだと思うが、自殺やそれに近縁の事故死、突然死が圧倒的に男性に多いこともその理由に寄与しているであろう。早い話、過剰飲酒による肝障害や慢性膵炎、無茶苦茶な働き方とそれに伴う自己破壊的な過食に運動不足が結びついて生じる高脂血症、粘着性をおびた血液、これに仕事上のストレスが負荷されて生じる脳血栓や心筋梗塞は、単なる偶発的な身体疾患ではない。家族という他者とのコミュニケーションを故意に切断し、その正当な理由として、仕事と業績を掲げ、自己との対話さえ回避する自己破壊的生き方(仕事嗜癖)の必然的な帰結である。つまり、慢性自殺であり、その基底には他者(自己こそもっとも身近な他者である)との親密性から逃避しようとする「失感情症(alexythymia)」という「男らしさの病」がある。それは「隠されたうつ病」であり、そしてこれらは親から子へと受け継がれる。

 

「男になるという神話」は巧妙に執拗に男の子を縛る。三船敏郎、高倉健、ジョン・ウエィン、ゲーリー・クーパーたちの「静かなる男」たちの系譜の後継を求める圧力の中で少年たちは過ごし、自己の中の良質の部分(コミュニケーションと共感を求める部分)を「女々しさ」とみなして、それを捨てることに躍起になる。自己評価の低い者、つまり親からそのままの自分を受け入れてもらうことの出来なかった少年たちほど、「男らしさの病」の罠にはまり、「男」と「伝統」にこだわる。「山野を駆け巡ってタヌキを獲る」ことを家族愛と誤解する。多くは「取らぬタヌキ」の皮をかぞえることになるのだが。

 

 私は長い間、「女らしさの病」の奇妙さのとりこになり、ずいぶん前にその名を付した本を編集した(誠信書房、1989年)。それにあきたらず摂食障害(過食症)の少女たちをテーマにした本(「生きるのが怖い少女たち」光文社 1997年)の中で女たちの性別意識と痩せ願望という嗜癖の関連に踏み込んでみた。以後、私の探求は自分自身、つまり「男らしさの病」に向けられていて、実は執筆に取りかかっていた。そんな時期にこの原稿を見せられ、正直、腰が抜けた。これを越える本はなかなか書けない。

 

 編集者から割り当てられた枚数はとうに越えているのだが、この本の真の価値(斬新さ)について、どうしても一言しておきたい。それには現在の精神医学が、いくつかの領域から根底的な変革を求められていることを説明しなければならない。この本の中に「伝統的な精神医学」という言葉がたびたび登場しているのは、原著者がこれに挑戦しているからである。従来の精神医学への挑戦は、とくに二つの領域に生じている。ひとつは1950年代から活発になった「嗜癖アプローチ」と呼ばれるもので、伝統的な精神医学は、この流れを頑なに無視しつづけ、日本ではこの傾向がことさらに強い。現在、「嗜癖」(日本では「依存症」のほうが通りが良い)は単にアルコール、ドラッグへの耽溺を意味するものではなく、ギャンブル、ショッピングから暴力、自傷行為(手首切りなど)、窃盗、性交、恋愛(性交への依存と恋愛嗜癖は同じものではない)、過食・拒食、他者への世話焼き(共依存)、そして仕事嗜癖にまで及んでいる。それらについて伝統的な精神病院の治療の無効はあきらかであり、嗜癖者たちは自助グループに集って行動修正を試みたり、自らをアダルト・チルドレンと称して、家族関係の見直しを図ったりするようになった。これに対応しつつ、気分変調症(従来、軽症うつ病と考えられてきたもの)と嗜癖的強迫行為(obsessivecompulsive behavior : やせ願望などのひとつの考え方に取りつかれ、その考えに突き動かされた行為をくりかえすこと)の緩和に効果を持つSSRI(選択的セロトニン再取込阻害剤:アメリカで頻用されたFluoxetine〈プロザック〉、日本ではFluvoxamine〈デブロメールなど〉が認可されている)の投与が精神科医の仕事になっているのだが、こうした治療に慣れた医師が今のところ、日本には少ない。この本は、この点で日本の専門家(特に精神科医)にぜひ読んでもらいたい。

 

 伝統的精神医学への、もうひとつの挑戦はトラウマ理論に基づく治療法の洗練である。本文中にも説明があるので、ごく簡単に述べるが、児童期に家庭内で受ける親からの否定的な体験(その一部は児童虐待と呼ばれる)がトラウマ(心的外傷)として、後年の人生に与える決定的な影響(それは精神的障害にとどまらず、体の発育や免疫機能不全などの身体疾患に及ぶ)が明かにされてきたことである。この領域は従来、ジグムント・フロイトに始まる精神分析が担当してきたのであるが、近年(1970年代以降)、その理論的限界と治療的欺瞞が家族療法とトラウマ理論の双方から指摘されるようになった(この辺の問題については、わたしの近著『封印された叫び』講談社1999年を参照していただきたい)。トラウマ理論では、生育家族内で心的外傷にさらされ続けながらも成人にまで生き残れた人々をアダルト・サヴァイヴァーと呼ぶ。アダルト・サヴァイヴァーは嗜癖アプローチでアダルト・チルドレンと呼ばれる存在と同一である。このふたつの名称が、併行して用いられてきたわけだが、この本はこれらふたつの領域が、ついに統合・融合されるに至ったことを示している。

 

 この素晴らしい本の著者について私は何も知らない。これを書いている時点で、原書そのものも手元にないからである。記述からピア・メロディ(アメリカの代表的なアダルト・チルドレン・セラピスト)の教育を受けたことがわかるのみである。

 彼は精神科医ではなく臨床心理士であり、著者もまたアダルト・チルドレンとして、自らの治療を必要としたリカバリング〈回復に努めた〉・セラピストであることがわかるのみである。そのために生じた用語上の問題が気になるので、日本の読者に一言注意しておいた方が良いと思う。この本の中にある「自我障害」という用語の使い方は、精神医学で通常用いられているものとは異なる。これは元来、自我境界が曖昧化ないし消滅化することによって生じる感覚・感情・思考の自己所属感の喪失を指し、自己の思考が他者に知られてしまう、他者が自己の思考を左右するなどの「精神分裂病」ないしその近縁疾患の際に見られる病的体験を指す。本書で説明されているような自己批判の亢進状態には用いない。ただし、これによって本書の総体的価値が、毀損されるものではない。あるいは私が無知のゆえに余計な指摘をしているのかもしれない。

 

 最後に、私が本書を読んで受けた最大のショックを挙げておく、本書はピア・メロディによるfalse empowerment(本書では「根拠のない有力化」と訳されている)の概念を紹介している。私は五年前、「やさしい暴力」という用語を用いて、親が子どもを過度の期待で縛ることの危険を述べ、これこそ世間にもっともありふれた、そして子どもにとって他種の虐待に劣らず厳しい暴力であることを説いた(「攻撃的なアダルト・チルドレン・思春期の対親暴力に関する一考察」<アルコール依存とアディクション>誌、第十二巻第一号23~30頁 1995年)。実はこのことこそ、「幻想的自己愛」の基盤であり、ここから閉じこもり青少年に固有の自己愛の肥大と対人恐怖、そして家庭内暴力が始まるという論旨の展開が、私の幻の著書「男らしさの病」の論旨の中核になるはずであった。そういうわけで、「やさしい暴力」に相応する概念が、すでにメロディによって、しかも英語圏で語られていたことを知ったとき、私は脱力してしまったのである。わずか数枚のはずの序文がこんな量に膨らんだ理由は、ここにある。今の私は、このことを、ひとこと言っておかないと気が済まない気分なのである。

 まぁ、気を取り直して、私が私の「男らしさの病」の執筆に取り掛かるとしよう。折から新潟の三十七歳・佐藤さん、京都の「てるくはのる」こと岡村さん、そして例の神戸の少年Aたちが、日本人の男らしさ意識とその影についての謎解きを私たちに迫っている。

 

              2000年3月 家族機能研究所にて

斎藤学 精神科医・ 家族機能研究所主催者

 

 

 

 

書評

 

読売BookStand 大型書評514

 

心の傷が生む称賛と攻撃性

 

 思わず引き込まれて一気に読んでしまった。読んでいて、もしかしたらこれは自分のことかもしれない、と思わされる瞬間が何度もあった。それとともに、肩の力を抜いてごらん、そして家族との関係を見直してごらんと、何度も暖かく励まされる思いがした。

 

 著者は臨床心理士として大勢の問題ある男たちのセラピーを手がけてきた。たとえば仕事に熱中して家族を顧みない。または家族の行動を自分の思う通りにしないと気がすまない。ひどいときは妻や子どもに暴力を振るう。著者によれば、こういう男性は「隠れたうつ病」を病んでいるのである。

 

 心に傷(トラウマ)があるとき、男たちは防衛のため嗜癖行為に走る。そして痛みの感情を押し殺そうとする。これが「隠れたうつ病」である。どんな行為に走るかというと、食べ物、アルコール、エクササイズ、コンピュータゲーム、性行為etc、そしてなんと仕事、なのである。

 

 男がおちいる嗜癖行為の一部は、たとえば仕事のように、男社会では正常な行為とみなされている。感情をおもてにあらわさず仕事に一途な男は、男らしい男として称賛される。だから内面にうつろなものを感じつつも、男であることの重圧に必死に耐えようとする。そしてとりつかれたように金や地位や名誉を求める。

 

 そのかわり「隠れたうつ病」を病んでいる男は、まわりの人、つまり妻や子どもを攻撃する。だから家族に疎まれ、ひどいときには憎まれる。ところが、そんな状態になっていても、本人は気がつかない。気づいたとしても、決して自分に問題があると認めようとしない。

 

 これはどこにでもある、ありふれた男の姿ではないだろうか。本書は男性論でありながら、生物学的な決定論でないところが良い。 男性に、そして女性にも、ぜひ読んでもらいたい一冊である。

 

吉田まりえ訳。(講談社、1800円) 評者・広岡守穂(中央大学教授・政治思想)

テレンス・リアル=臨床心理士。ハーバード大学ジェンダー・リサーチ・プロジェクトディレクター。

 

 

 

 

 

第5章、不朽の「男文化」 無視する父親、手をこまねく母親

 

感情の回路は一見些細な受動的トラウマによっても切断される。平凡な中流家庭の夕食時に、誰もが気づかないままそれが起こっているのだ。

 

ジェイニーは家族が食卓を囲む光景をこのように描写した。帰宅したばかりの夫のロバートはくたびれ果てている。ジェイニーはみんながその日の出来事を語って団欒したいと思うのだが、ロバートは話などせずにリラックスしたい。ジェイニーは反応のない夫は諦めて二人の息子たちに話しかける。ところが彼らも父親と同じように「ああ、うん」と短い返事であしらい、母親を無視するばかりである。うるさい女だと思われたくないので文句も言えない。そのうち彼女も黙り込んでしまう。食後はロバートがテレビのニュース、息子たちは自分の部屋に行ってゲームや宿題をする。ジェイニーはキッチンにこもり、念入りな後かたづけで時間をつぶす。

 

 これが当たり前であるかのように、毎日くりかえされている。しかし、家族セラピでどこの家にもありそうなこの光景を描写した時、ジェイニーは「これではいけない」と気づいたのである。ここで息子たちが学んでいたものは何だったのか。

 

 父親は自分たちに関心がない。何に対しても全く反応をしない。そういうものなんだ、期待してもしょうがないのだ、ということを学んだのである。また、母親には父親を会話に惹きつける手腕も、反応のなさを正す力もなく、感情的に不在な父親を容認している事実も学んでいる。無視する父親、手をこまねく母親という図式から、少なくともこの一家においては、男にとって家庭生活に参与するか否かは本人の勝手で、したくなければしなくていいと教えているのである。同時に、母親、ひいては女性一般をまともに取り合わなくてもいい、と教えている。最後に、母親の存在だけではなく、彼女が家族に求めるつながりや対話というものは無価値で取るに足らないものである、と学んでいるのである。

 

 そこから派生して 「女が大切に思う事やしたがる事に同調すると自分も価値下げされかねない」、というメッセージも学んでいる。皮肉なことに、息子たちが父親とのつながりを持つ唯一の方法は、父親と同じつながりを断つ態度をまねるしかないのである。母親のようになってしまうとますます父親の愛情を失い、時には懲罰さえ受けかねない。

 

 こうした家庭内での何気ないやりとりを通して、少年たちは感情的に放置されることを受け入れ、慈しむ心を過小評価していく。そして見捨てられたための負のエネルギーを「男らしさという名の美徳」に転換していこうとするのである。

 

 多くの人が深刻な問題とすら見なさない状況だったにもかかわらず、ジェイニーは家庭の中で孤立している自分の立場を受け入れることができなかった。改善策を求めてまず夫を、そして息子たちを家族セラピに参加させたのである。しかし、稀にみる気丈さと賢明さを具えたジェイニーのような女性でも、問題の核心をはっきりと捉えてはいなかった。わたしと面談することになったきっかけは、不安神経症とうつ症状の治療を求めてのことだった。彼女は自分が家庭内に問題を引き起こしている思っていた。しかしセラピをはじめてまもなく、問題の根は家族にあるということがあきらかになった。

 

 そこで、彼女が変わるのではなく、彼女をとりまく状況を変える努力をすることにしたのである。ロバートを説得するのは難関だったが、自分の病の根を理解したジェイニーは断固として後に引かなかった。夫と彼女の間の対話だけでなく、家族全員のコミュニケーションを改善することを主張して止まなかったのである。

 

 ロバートはもう、広げた新聞の奥に隠れることもなく、息子たちとの会話がぶっきらぼうな返事で途絶えてしまうこともなくなった。ジェイニーだけではなく、家族全員がこの変化を歓迎している。

 

 ジェイニーは稀有な女性である。家族のつながりが失われることによって荒廃していく自分に気づき、その問題と真っ向から向き合う道を捜し求めた。まず夫婦をの関係を、そして親子の関係を是正していった。彼女にとって家庭は寂しすぎて耐え難いものになってきていたのである。自分のためにも何としても解決しなければならなかったが、何よりも、心のつながりを失っていく息子たちのことを案じていたのである。

 

 娘たちと同様に、息子たちとの心のつながりを大切にしようとする父親や母親が増えてきている。しかしこうした努力にもかかわらず伝統的な男教育は衰えを見せていない。家庭の中でも外でも昔ながらの男性像は健在であり、少年たちの生活に大きな影響を与えつづけている。

 

 

訳者あとがき

 

 

「病は気から」といわれますが、その「気」を病んでしまった人にとっては、これほど残酷な言葉はないかもしれません。

健康なときには悩みがあっても、美しい花を見て心がほぐれたりするものですが、うつ状態の心象風景では、その極彩色の花々がモノクロ画像になり、スローモーションで枯れて行きます。やっかいなことに、激しい自責の念に駆られるというのがうつ病の症状のひとつですから、軽い症状ではじまっても、この病の特質を理解せずに自分の性格の弱さだ、などと思いつめると、どんどん症状が悪化していきます。

 

アメリカの統計では、五人に一人が、一生のうちのある期間うつ状態を経験しているといわれ、毎年、二十人にひとりが深刻なうつ病に罹っているといわれます。チャーチルは自らのうつ病を「黒い犬」と呼び、リンカーンは「この世にわたしほど惨めな男はいない」と嘆きました。本書でも紹介されているピューリッツァー賞受賞作家ウイリアム・スタイロンは自伝「Darkness Visible」を書き、CBSのニュース番組「60ミニッツ」のニュース・キャスター、マイク・ワレスは、1997年に自らのうつ病体験を語るドキュメンタリーをHBOで放映し、大きな反響を呼びました。

 

これほどおおぜいの人を無差別に襲う病であることを思うと、仮にうつ病が心の弱さから起こるものだとしても、それは人間ならば誰でも持っている弱さであると言わねばなりません。そしてその弱さをつくりだす神経回路や神経伝達物質のメカニズムも解明されてきて、治療さえすればめざましい効果を上げられるようになりました。

 

こうした統計や体験記はすべて、本書の著者が「表面化したうつ病」と呼んでいる、不眠、焦燥感、不決断、自殺念慮などの、一般に知られている診断基準に基づいたものです。

家族セラピストとして二十年以上「問題を抱えた」男性の治療にあたってきた著者は、アルコールやドラッグの乱用、愛する人への暴力、家庭を崩壊するほどの仕事中毒、コントロール魔、賭け事狂い、セックス・マニアなどの行動を止めたとき、うつ病が怒涛のように表面化するという臨床経験から、この、通常「反社会性人格障害」と診断されたり、「男の性分」とすらみなされている行動が、うつ病の表面化を防衛するための嗜癖行為であると結論するに到りました。そしてそれを「隠れたうつ病」と名づけ、うつ病としての治療法を確立したわけですが、「隠れたうつ病」を含めて統計を取ったなら、うつ病を病む人の数は膨大なものになるでしょう。

 

「表面化したうつ病」は本人を苦しめるが、「隠れたうつ病」はまわりの人を苦しめる、と著者は言います。癒しの場であるはずの家庭が深刻な問題を抱えている状態ほど、わたしたちを不幸にするものはありません。

アメリカでも近年ようやく深刻な社会問題として認識された家庭内暴力を例にとるなら、この問題がもたらす悲惨さは、被害者が攻撃者を憎み、罰するだけでは幸福になれないところにあります。アメリカの統計では毎年四百万人の女性が夫や恋人によって暴力を振るわれており、一日に四人の女性が殺されているといいます。物理

的に被害者を保護するための駆け込み寺、被害者や暴力の現場に立ち会う警官の教育、加害者が被害者に近づくことを法的に禁じるなど、さまざまな対策が取られてきましたが、裁判所が加害者にセラピーを受けることを命令するケースが増えてきています。州によっては家庭内暴力専門の裁判所もあり、ここではセラピーの進行状態を定期的に報告しなくてはなりません。

 

著者は「わたしの面談室に自発的にやってきた男性はほとんどいない。たいていは裁判所の命令で、あるいは妻や恋人に最後通牒をつきつけられたためだった」と述べ、本当に幸せな家庭を築くためには、女性が勇気を持って回復への道を先導する必要があることを警告しています。

 

トラウマ生理学をめぐって転機に立っている精神医学界の現状を把握し、的確な専門語を探索するのは、心理学、精神分析学の専門的な知識を持たないわたくしには荷が重過ぎたと感じています。持病のうつ病が表面化しはしないかと冷や汗をかきながらの作業でした。翻訳版は抄訳でもありますため、専門家の方が原書を参照して著者の考察を研磨して下さることを願って止みません。

最後になりましたが、序文を書いていただいた精神家医の斎藤学先生、翻訳の機会を与えてくださった講談社の丸木明博さん、エディターの浮田泰幸さん、ありがとうございました。

                             吉田まりえ

 

 

 

著者略歴

家族セラピーを専門とする臨床心理士として、マサチューセッツ州で開業。

ケンブリッジ・ファミリー研究所で教鞭を取り、ハーバード大学ジェンダー・

リサーチ・ プロジェクトのディレクターでもある。

 

 

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