犬を飼うのが怖かった獣医の娘 |
||||
わたしの家系は、曽祖父母の代に北海道空知郡の富良野に開拓民としてやってきた、生粋のどさんこである。富良野市は今や、倉本聡の「北の国から」がNHKのドラマになったりして有名になってしまったが、わたしが住んでいた昭和30年代は、タマネギ畑ばかりの小さな町だった。もちろん、道外では山登りをする人以外にフラノを知っている人などなく、わたしが東京の大学に出てきた昭和44年頃でも、「学校には熊の背に乗って通った」と冗談を言ったらみんな本気にしたので、とても困ったことがある。 わたしの父は獣医だった。農業が主産業だったこの町で、大切な家畜の世話をする仕事だから、町の人から慕われ尊敬されていた。もちろん家族からも敬われていた。 当時の父親というのはどこの家でも威厳があったものだが、うちはとくに威厳のかたまりのような父だった。祖母や母は、これまた当時の女親の典型で、厳しい男親とのバランスをとるために、のんびり、うっかりが第二の本能となってしまった風な人たちだった。 とはいえ、スパルタ教育の信奉者である父の流儀は、子どもたちに存分に適用された。 もちろん体罰もメニューにはいっていたが、わたしの場合は特殊な事情でそれをまぬがれた。というのは、六歳のときに、ちょっとした事故で頭を打っただけなのに脳波に異常が出て、六年間にわたって発作を起していたからである。その発作というのも、大声で叱られたり兄妹喧嘩をしただけで、翌朝ふとんの中で半身不随のような状態になって発見される、という実に都合の良いものだった。 五分くらいで終わるのだから本人は平気なのだが、両親にしてみれば深刻な問題だった。なぜなら医者から「発作を起すたびに確実に知能が低下しますので、気をつけてあげてください。お気の毒です」といわれていたのである。気の毒だったのはわたしの兄の方である。喧嘩をするとわたしが悪くても知能が低下しつつある妹を相手に喧嘩したという理由で叱られなければならなかった。 そういうわけで、スパルタ一家の中で、わたしだけは甘やかされて育ったわけだ。しかし、体罰や怒髪天をつく叱りかたをしなくても、子どもには簡単に恐怖感を与えることができるものである。ここで言いたいのは、実はそのことなのだ。 父はなかなかユーモアのセンスもある人で、子どもたちが「風邪をひいた」などというと、「どれどれ、父さんが注射してやろう」といって、カバンからラムネのびんみたいに太い、馬用の注射器を取り出したものである。これを四、五歳のときにやられたら、恐怖感は一生つきまとう。確かに、仮病をつかって学校を休もうなどど不埒なことは考えなくなる。それどころか、条件反射で、熱がある時ほどなぜか学校に走って行きたくなるから不思議だ。そのために、母はよく学校の医務室に収容されたわたしを迎えに来なければならなかった。 さて、そろそろタイトルにある犬の話にはいろう。獣医の家だもの、当然犬の一匹や二匹は飼っていたはず、とみなさんは思っただろう。確かに、わたしが物心ついたとき、メリーという真っ黒なメスの樺太犬がいた。しかしほどなく父が「こんな大型犬を街の中で飼うのは犬にとって残酷だ」と主張して、知り合いの農家に里子に出してしまった。 当時の富良野町で、街といったってたかがしれているのだか、父はなかなかの哲学者でもあったらしい。メリーはふた月に一度遊びに来るだけの、わたしにとっては遠縁の親戚みたいなものになってしまった。 そんな頃、五歳年上の姉がどこからかワイヤー・ヘアード・フォックス・テリアという舌をかみそうな名前の犬のことを聞いてきて、どうしてもこの人形のような小型犬を飼いたい、と父に懇願した。 父 「犬はおもちゃじゃないんだ。ちゃんと世話ができなければ飼うわけにいかん」 姉 「する、する。責任持って世話するから」 父 「朝夕二回、必ず散歩に連れて行かなけりゃならないんだぞ。猫とちがうんだから」 姉 「必ず散歩させる!」 兄 「ボクもする!」 私 「・」 父 「動物はちゃんとしつけないと、とんでもないことになるんだゾ」 姉・兄 「しつける、しつける!」 父 「もし、お前たちがしつけ損なって人様に危害を加えたら、その時は父さんがこの注射器で眠らせてしまうんだゾ」 姉・兄 「スル、スル!」 私 ガァァァ~~ン 「スル、スル」とくりかえしつづける姉と兄を、このときほど尊敬したことはない。こんな恐ろしい可能性を秘めた計画に、どうしてこうもあっさりと確約できるのだろう。わたしは身震いしながらポカ~ンと口をあけて、みんなの顔を見ていた。 そしてクリちゃんが我が家にやってきた。血統名をエリザベスなんとかという、由緒正しいメス犬だ。姉と兄はほぼ約束どおりにクリちゃんの散歩をし(ときどき母が父に内緒で助け舟を出していた)わたしはクリちゃんの毛を形よくトリミングする係になった。 それから二年ほど経ってからだったろうか(この辺の記憶があいまいなのだが、わたしは小学校の三年生だったはずだ)、クリちゃんが玉のような子犬を4匹生んだ。当時でも一匹一万円もする犬だったのに、3匹はあっという間に買われていった。残った一匹、オスのリッキーはうちで飼うことになった。 小さい犬だったからか、誰がいうともなくリッキーは末っ子のわたしの担当みたいになった。わたしも自分より目下のモノができて、とても嬉しかった。 ある日、わたしは学校から帰ると、いつものようにリッキーを連れて再び学校へ向かい、校庭で遊ばせていた。やがて友だちが数人集ってきて、ブランコに乗ったりボール投げをしたり、数時間楽しく遊んだ。夕食に間に合うように急ぎ足で帰宅したら、もう父も帰って来ていた。玄関の上がり口で靴を脱ぎながら居間のソファーに坐っている父と一瞬、目が会ったとき、突然、わたしは思い出した!そして、脱ぎかけた靴をまたはいて、青ざめながら後じさりしていた。 それを見咎めた父が「どうしたんだ」といった。 「なんでもない!」と言ってはみたが、次の瞬間、わたしは大声で泣き出していた。 あぁ、どうしよう、リッキーを忘れてきた、早くさがしに行かなきゃ、見つからなかったらどうしよう、お父さんに怒られる、ものすごく怒るだろな、あぁ、なんていったんだっけ、ちゃんと世話できなければ、この注射器で眠らせてしまうとかなんとかいったんだ、 たいへんだ、たいへんだ、眠らせられるぅ~~~ 動転したあまり、つじつまの合わないことばかりが脳裏を駆け巡る。ラムネのびんもチラチラする。その後なにがどうなったのか記憶がさだかじゃないのだけれど、父と母が、どうにかわたしから事情を聞き出して、一家総出でリッキー探しにくりだしたらしい。肝心なのは、この間、父はただの一度もわたしを叱らなかったことである。そのときは気が立っていたから深く考えなかったが、 後日、とぎれとぎれに耳にした家族の会話をつなぎあわせると、どうも、わたしがあまりにも愚かなことをしてしまったため、両親はとっさにいよいよ知能が低下したと確信したらしいのである。 その後三ヶ月にわたってリッキーをさがしつづけ、町の新聞や有線放送でも迷子の犬の広報がされた。家族の誰かが親犬のクリを連れて歩いていると、知らない人から「それらしい犬を怪しい人物が連れて歩いていた」などという電話すらかかってきた。しかし、とうとうリッキーは帰ってこなかった。たぶん、誰かが見つけて売ったのだろう、きっと可愛がってもらっているから大丈夫、ということになったのである。 わたしは今二匹の犬と三匹の猫を飼っている。友人・知人からは無類の動物好きと思われているが、実は犬を飼いはじめたのは六年前、猫も十三年前まで飼ったことがなかった。 なが~いあいだ、自分は動物を飼えるまでに成長していない、と思いつづけていた。 それが、リッキーを失ったためなのか、父の教訓が厳しすぎたためなのか、今だによくわからないままである。二十代のころには、動物と共に生きる生活をこんなに楽しめる自分になれるとは、想像もできなかった。
|